本当の青年海外協力隊精神
2012年 01月 09日
アフリカ・ウガンダから帰国して約2年が経つ。
12月23日に勇志国際を訪れてから、様々な過去の記憶が結集し、確信をもった気づきとして私の体内から体外へと出てきている。
そこで、現代ではなく、「真の協力隊精神(創始者の思い)」を調べてみた。
◎青年海外協力隊五ヶ条
①ともに住んで異民族の心を知る
②その住む国を鏡に日本の姿を見る
③こうして、実践裡に、大いなるもの、国と世界に開眼する
④そのときも、そのあとも、おおらかな夢に生き
⑤静かなる人間革命に先駆ける
素晴らしい項目が掲げられている。私は②と③を得て帰国することができ今がある。
私の記憶が薄れているせいかもしれないが、訓練所ではまったくこの「精神」が意識されていなかった。なぜなら帰国した今知ったからだ。
同期にもきいてみたが、「・・・・そんなのあったの?!!」と誰一人として知らなかった。
何事も創始者の思いに触れるということは欠かせない。
その「使命感」を持って活動すれば、大きなものを背負って力を発揮できるからだ。
創始者:
陸軍中野学校出身の青年将校だった末次先生は、敗戦直後に、戦死した仲間に代わって
(1)戦後処理を行うことと、
(2)日本を立て直すための人材を育てるために青年教育に尽力すること
を、生涯の仕事と決意された。まず末次先生は、同し志を持つ青年たちを集めて健青会を組織し、海外に取り残された人びとの引き揚げ促進と引き揚げ者の援護活動を行われた。
末次先生のご功績のわずかを紹介したい。
①サンフランシスコ平和条約の発効で日本が独立を回復した昭和二十七年、末次先生はフィリピンのキリノ大統領に、モンテンルパの刑務所で服役していた百二十人の戦犯を、五十九人の死刑囚は無期懲役に減刑した上で、全員日本に送還して巣鴨プリズンで服役させるよう嘆願し、この願いは翌年かなえられた。
②台湾入の戦犯も末次先生のお世話になっている。台湾入戦犯は、敵として戦った蒋介石の支配する台湾に帰ることを望まなかった。そこで末次先生は、彼らの住居として企業に寮を提供させたり、職を探してあげたり、さらには政府から援助金を引き出して彼らに分配し、各自にその半額を拠出させてタクシー会社を設立させたりした。当時、タクシー会社の免許を取るのは大変だったが、末次先生が政府と交渉して免許を出させたのである。
③沖縄基地問題研究会を組織し、米国から有力な学者、元軍幹部、外交関係者などをこの研究会に招いて討論した結果、「核抜き、本土並み、七二年返還」という結論を導き出し、それを日米両政府が受け入れて、昭和四十七年(一九七二年)の沖縄返還が実現したのである。
④「残る戦後処理問題は北方領土だ」と、その後三十年近くにわたって、ソ連、ロシアとの交渉に取り組まれた。いまだに解決の見通しはたっていないが、けっして諦めない末次先生の粘り強さは比類なきものであった。
西郷南洲遺訓にこんな言葉がある。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
このような人物こそ、真の国士というのであろう。「時代が人を生む」と言うように、幕末明治維新の時代には、日本にも多数の国士が現れた。
しかし、豊かで平和ボケと言われる今日の日本には、真の国士は現れようがないのかもしれない。
末次先生を師と仰ぐ人は数多くいても、艱難を共にして国事に当たる仲間の国士が存在しないことを、末次先生は淋しく感じておられたのではなかろうか。
国内の青年教育に携わるものとして「世界に誇る日本人青年」を育て、世界に「真の日本人」を輩出し、世界平和を実現することが日本の世界的使命だと感じる!!
先人の生き様に感謝!!
<大国に挑む日本人青年>
http://www.youtube.com/watch?v=kBN-cEkuPBE&feature=related
12月23日に勇志国際を訪れてから、様々な過去の記憶が結集し、確信をもった気づきとして私の体内から体外へと出てきている。
そこで、現代ではなく、「真の協力隊精神(創始者の思い)」を調べてみた。
◎青年海外協力隊五ヶ条
①ともに住んで異民族の心を知る
②その住む国を鏡に日本の姿を見る
③こうして、実践裡に、大いなるもの、国と世界に開眼する
④そのときも、そのあとも、おおらかな夢に生き
⑤静かなる人間革命に先駆ける
素晴らしい項目が掲げられている。私は②と③を得て帰国することができ今がある。
私の記憶が薄れているせいかもしれないが、訓練所ではまったくこの「精神」が意識されていなかった。なぜなら帰国した今知ったからだ。
同期にもきいてみたが、「・・・・そんなのあったの?!!」と誰一人として知らなかった。
何事も創始者の思いに触れるということは欠かせない。
その「使命感」を持って活動すれば、大きなものを背負って力を発揮できるからだ。
創始者:
陸軍中野学校出身の青年将校だった末次先生は、敗戦直後に、戦死した仲間に代わって
(1)戦後処理を行うことと、
(2)日本を立て直すための人材を育てるために青年教育に尽力すること
を、生涯の仕事と決意された。まず末次先生は、同し志を持つ青年たちを集めて健青会を組織し、海外に取り残された人びとの引き揚げ促進と引き揚げ者の援護活動を行われた。
末次先生のご功績のわずかを紹介したい。
①サンフランシスコ平和条約の発効で日本が独立を回復した昭和二十七年、末次先生はフィリピンのキリノ大統領に、モンテンルパの刑務所で服役していた百二十人の戦犯を、五十九人の死刑囚は無期懲役に減刑した上で、全員日本に送還して巣鴨プリズンで服役させるよう嘆願し、この願いは翌年かなえられた。
②台湾入の戦犯も末次先生のお世話になっている。台湾入戦犯は、敵として戦った蒋介石の支配する台湾に帰ることを望まなかった。そこで末次先生は、彼らの住居として企業に寮を提供させたり、職を探してあげたり、さらには政府から援助金を引き出して彼らに分配し、各自にその半額を拠出させてタクシー会社を設立させたりした。当時、タクシー会社の免許を取るのは大変だったが、末次先生が政府と交渉して免許を出させたのである。
③沖縄基地問題研究会を組織し、米国から有力な学者、元軍幹部、外交関係者などをこの研究会に招いて討論した結果、「核抜き、本土並み、七二年返還」という結論を導き出し、それを日米両政府が受け入れて、昭和四十七年(一九七二年)の沖縄返還が実現したのである。
④「残る戦後処理問題は北方領土だ」と、その後三十年近くにわたって、ソ連、ロシアとの交渉に取り組まれた。いまだに解決の見通しはたっていないが、けっして諦めない末次先生の粘り強さは比類なきものであった。
西郷南洲遺訓にこんな言葉がある。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
このような人物こそ、真の国士というのであろう。「時代が人を生む」と言うように、幕末明治維新の時代には、日本にも多数の国士が現れた。
しかし、豊かで平和ボケと言われる今日の日本には、真の国士は現れようがないのかもしれない。
末次先生を師と仰ぐ人は数多くいても、艱難を共にして国事に当たる仲間の国士が存在しないことを、末次先生は淋しく感じておられたのではなかろうか。
国内の青年教育に携わるものとして「世界に誇る日本人青年」を育て、世界に「真の日本人」を輩出し、世界平和を実現することが日本の世界的使命だと感じる!!
先人の生き様に感謝!!
<大国に挑む日本人青年>
http://www.youtube.com/watch?v=kBN-cEkuPBE&feature=related
by peacefulsports89
| 2012-01-09 10:01
| 勇志の心